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『憂国』(三島由紀夫)

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三島由紀夫の憂國

映画『憂國』1965年制作 時間28分

1970年三島由紀夫 逝去後、上映禁止となったが、三島夫人が亡くなった後フィルム原版が発見され、DVD化となった。

三島由紀夫が、自ら製作、脚色、監督、主演までを務めた異色の無声映画。
1965年の4月15日と16日の二日間で撮影がおこなわれた。
バックにはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の音楽部分が使用されている。

1936年の2・26事件・・
仲間から誘われなっかた将校が仲間を討たなければならなくなり、忠義と友情の狭間で死を決意する。その妻も夫の意思に従い、後を追うと決め、夫の死を見届けることを約束する。

終始、物語は能の舞台ですすめられる・・
最後に愛し合ったあと、作法どうりに男はさらしで巻いた刀を握り、剥き出しの下腹をかき切ろうとする。
しかし、なかなか簡単に刃はすすんでくれない。
脂汗を流しながら、己が決意を成し遂げようとする夫を見守る幼な妻。
その顔はとめどなく溢れる涙で濡れ、長い嗚咽が聞こえる。

妻は最期を助け、息絶えるまでを見届けたあと、短刀で喉を刺した。
折り重なって眠るふたりの姿。
義を重んずる時代、ある夫婦の心中の一部始終。
映画はそれだけを伝えて終わる。


DVDを観て思うのは、やはり三島の死について。

文学のほか様々な分野で自己表明は存分に果たした・・
最期に決定的な衝撃を世に放って一生を終えよう・・
自決によってアイデンティティの総仕上げを望んだ。
そんなふうにも受けとれる。

「憂国」
政治家がその任務に臨む動機でもある・・はず。

平岡 公威(ひらおか きみたけ)
1925年1月14日-1970年11月25日(45歳没)

三島由紀夫の父方の高祖父、永井尚志(なおむね)は、幕末の旗本。
三河奥殿藩の第5代藩主、奥殿藩大給松平家7代、松平乗尹は、幕末に活躍した永井尚志の実父である。(WIKIPEDIAより)

三島由紀夫 市ヶ谷自衛隊駐屯地事件

1970年11月25日
作家・三島由紀夫(本名:平岡公威 ひらおかきみたけ)東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺

当日は『盾の会』例会の日だったので他のメンバーは会場で三島の来るのを待っていたらしい。
国を憂い、自衛隊のあり方を正すための呼びかけを隊員たちは真剣に受け止めはしなかった。
説得が目的ではなかったのだろう。

拡声器なしの肉声では、命を賭した訴えはあまりに弱弱しく聞こえた。
報道関係のヘリコプターも彼の檄をかき消す。(当日、茶の間でテレビニュースを見ていた)

唯一人でもカメラマンを引き連れていたとすればどうだったろう?
一語一句もらさず、すぐそばで撮影されていたなら。

死を決意した一作家の形相も、平岡公威そのひとが散る凄まじい一瞬も残酷なまでにしっかりと捉えただろう。三島がそれをまったく望んでいなかったとは思わない。半裸の写真集『薔薇刑』の自虐のナルシシズムからも、短編『憂国』にあるように割腹の様子を克明に描写するあたりをみても、これは容易に推測できる。

バルコニーからの檄文は「あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう。・・もう待てぬ。・・・我々の愛する歴史と伝統の国、日本・・これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。・・」と死をもって訴える同志を募っている。

その後、総監部において三島が割腹し、見届けた森田必勝が介錯をするが、なかなか落ちず、数回振り下ろしたらしい。(当日の様子は『正論』12月号に詳しい)

武士の割腹自殺も日本の伝統のひとつに違いない。
血なまぐさい戦の時代。神社の祭祀で神輿を荒々しく揺するのは出陣前の景気付けなのだし、侍たちの切り合いを目撃することもめずらしいことではなかったのかもしれない。

独自の文学を世に納めたのち、自らの命を義に捨てることを惜しまず、世に、日本に捧げた彼の最期は、効果的であったかどうかはともかく、衝撃的な忘れられない事件である。
あれから35年後の現在、憲法改正も自衛隊の位置付けも解釈のあり方だけをあげつらい、なんら改善のないままに来た日本。

三島の愛国の思いとはほど遠い問題で困窮している。
見るも醜い『たかり』根性でしでかしてきた数え切れない不正(はびこる官僚天下りも同じ意)と無責任事業の後始末でこの国は破産寸前。

誰が愛せるか?なるだけ国のことは考えないほうが心の健全を保つのにいいとすら思えてくる。

 

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