(2005.11.30 公開)
1970年11月25日
作家・三島由紀夫(本名:平岡公威 ひらおかきみたけ)東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺
当日は『盾の会』例会の日だったので他のメンバーは会場で三島の来るのを待っていたらしい。
国を憂い、自衛隊のあり方を正すための呼びかけを隊員たちは真剣に受け止めなかった。
説得が目的ではなかったのだろう。
拡声器なしの肉声では、命を賭した訴えはあまりに弱弱しく聞こえた。
報道関係のヘリコプターも彼の檄をかき消す。(当日、茶の間でテレビニュースを見ていた)
唯一人でもカメラマンを引き連れていたとすればどうだったろう?
一語一句もらさず、すぐそばで撮影されていたなら。
死を決意した一作家の形相も、平岡公威そのひとが散る凄まじい一瞬も残酷なまでにしっかりと捉えただろう。三島がそれをまったく望んでいなかったとは思わない。半裸の写真集『薔薇刑』の自虐のナルシシズムからも、短編『憂国』にあるように割腹の様子を克明に描写するあたりをみても、これは容易に推測できる。
バルコニーからの檄文は「あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであろう。・・もう待てぬ。・・・我々の愛する歴史と伝統の国、日本・・これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう。・・」と死をもって訴える同志を募っている。
その後、総監部において三島が割腹し、見届けた森田必勝が介錯をするが、なかなか落ちず、数回振り下ろしたらしい。(当日の様子は『正論』12月号に詳しい)
武士の割腹自殺も日本の伝統のひとつに違いない。
血なまぐさい戦の時代。神社の祭祀で神輿を荒々しく揺するのは出陣前の景気付けなのだし、侍たちの切り合いを目撃することもめずらしいことではなかったのかもしれない。
独自の文学を世に納めたのち、自らの命を義に捨てることを惜しまず、世に、日本に捧げた彼の最期は、効果的であったかどうかはともかく、衝撃的な忘れられない事件である。
あれから35年後の現在、憲法改正も自衛隊の位置付けも解釈のあり方だけをあげつらい、なんら改善のないままに来た日本。
三島の愛国の思いとはほど遠い問題で困窮している。
見るも醜い『たかり』根性でしでかしてきた数え切れない不正(はびこる官僚天下りも同じ意なり)と無責任事業の後始末でこの国は破産寸前。
誰が愛せるか?なるだけ国のことは考えまいとするほうが心の健全を保つのにいいのではないか。